はじめに
ここ最近「人間に残された道は非合理性の追求かもしれない」がしっくりくるようになってきました。
非合理性というのは「娯楽的」と捉えています。つまり主観としての「楽しい」を基準としたものです。
本記事では手を動かしてみた立場からの実体験に基づいた内容にするつもりです。
あくまでエッセイです。厳密な定義を用いた話の展開を求める方には向いていません。ご了承ください。
合理性とは何か
まず合理性とは何なのかを考えてみます。これは「より効果的・効率的な方向」のようなイメージで捉えています。
例えばエンジニアな領域であれば、
- 効率的に無駄無く進めよう。
- プロダクトの改善を継続的に進めよう。
- 可読性・保守性・安全性・拡張性を考慮した設計・実装をしよう。
- スピード感を持って正確な成果物を提供しよう。
などが「合理的な見地に立った方向性」です。異論もほとんど無いでしょう。
そのため逆に、
- 非効率的に無駄だらけで進めよう。
- プロダクトの改善をしないようにしよう。
- 可読性・保守性・安全性・拡張性を考慮しない設計・実装をしよう。
- 出鱈目な成果物を遅く提供しよう。
とはならないわけです。なぜならば非合理的だからです。
つまり人間の全体的な歩みとしては一定の「合理性」(正義)に基づいて決定・邁進しているように観察されます。本心に従えばそれが自然だからです。
ChatGPTの登場
さて、とんでもないモノが彗星の如く現れました。これは OpenAI が提供するチャットボットですが、これまでのAIとはまるで違います。
おおよそ以下の通りです。重要なポイントは「全てを満たしている」ということです。
- 文脈を読める
- 行間を読める
- 機械っぽくない
- 短時間で合理的且つ実用的な返答をする
これは「理想的な人物像」なるものと若干被ってきます。「より効果的・効率的な方向」へ導いてくれる存在ということです。
まだ少し粗は見えますが、バージョンアップで改善されていくのも「時間の問題」でしょう。そろそろ何が言えそうなのかが見えてきたのではないでしょうか。
シンギュラリティ
さてさて、割と昔から「シンギュラリティ」という単語をインターネット上で目にするようになりました。ここでは「AIが人間を超える」ぐらいの認識に留めたいと思います。
ChatGPTの登場 を受け、試しに ChatGPT をコンシェルジュ的な立ち位置に置いて開発をしてみたのです。すると無事に組み上がるわけです。私は「あれ・・ほぼ到来しちゃったんじゃ・・」と感じているのです。hahaha。
これまで Google で探し回っていたことがチャットに聞けば「短時間で合理的且つ実用的な返答をする」ということです。「中に人がいるのでは?」と疑うくらい「文脈・行間」を読んだ上での返答があるのです。Google LLC が「コードレッド」を宣言されたのも頷けます。
ここで人間の行動がおおよそ以下に規定されるということです。
- AIに質問をする。
- AIの回答を確認・実行する。
2つ目の「確認」に関してはまだそれなりに必要な感触ですが、それも「時間の問題」でしょう。
・・え?違和感を感じますか?
いやいや、そんなはずはない。これは間違い無く「合理的な見地に立った行動」(正義)です。だから違和感(不義)を感じるはずはないのです。
違和感の正体
ズバリ「人間いらなくない?」ではないでしょうか。表現を変えるならば「合理性を突き詰めた人間はAIと代替可能である」です。
かつて「自分の不得意なことは得意な人に任せよう」という言葉を耳にしたことがあります。
「得意」というのはおおよそはAIが「得意」ということであり、人間は「不得意」という事実です。人である必要はありません。
またソレは既に社会に溶け込んでいる事実を受け止めねばなりません。個人がその影響から回避・逃避することは極めて困難であると言えます。
社会に重ねて表現をするならば「意志に反した ブルシット・ジョブ 化を否定できなくなる」ということなのでしょう。
余談(将棋の世界)
ここでは別の角度からの体験を挟んでみます。時代を先行している「将棋」の世界です。
これは将棋の対局サイトで、対局相手のコンピュータのレベルを選択することができます。高レベル帯に設定してみるのもアリです。
どうでしょうか?「ヒント」(AIの候補手を表示)無しでは厳しいのではないでしょうか。人間の物理的な限界地点を感じるのではないでしょうか。
人間が正面から戦うことは現実的では無いと受け取れます。つまり「AIから人間が学ぶ」という構図になるわけです。
究極的に「勝負に勝つ」を目的とするならば「人ではなくAIが直接指す方が合理的」ということですね。(それでも人の世界が残っているのは「観客を動員できる」などの要因があるからでしょうが、話が広がってしまうので呟き程度に留めておきます。)
残るもの
閑話休題。ここまででなんとなく「一部の領域ではAIの方が絶対的に優秀で他の部分においては時間の問題」ということを感じ取られているのではないでしょうか。
前述の 違和感の正体 もなかなかのインパクトがあると感じます。「人間はAIと代替可能な存在を目指している」と捉えてみると「努力して破滅に向かっている」ような気にもなります。
また最近の世の中は「質量からの解放」の方向へ進んでいる印象ですが、仮にそれが実現することで「自我同一性とは?」の問題(既に質量の無いAIの方が絶対的に優秀)とも直面しそうです。
では合理性の面でAIより劣る人間に何が残っているのでしょうか。
それは・・(人間だからできるあえての)「非合理性の追求」なのではないかと感じるわけです。
合理性の領域はAIから与えられる「受動性」であり、非合理性の領域は人の心の「楽しい」に根付いた「能動性」といったイメージです。
重要なことは仮に合理性の領域に人の行動・活動が干渉したとしても、その者が「楽しむため」に根ざした行動・活動(実質的に非合理性)であれば何の問題にもならないということです。
総括しますと「人間に残された道は非合理性の追求かもしれない」ということですね。
万能理論の登場
以上を踏まえ、本記事の執筆中に編み出された「万能理論」をご紹介します。(「非合理性の追求」と言いながら)これに当てはめれば大抵の説明がつきそうな理論です。
{ a } を楽しむために { b } に取り組む(取り組んでいる)。
- 青信号:
{ a }
と{ b }
をどちらも満たしている。 - 黄信号:
{ a }
を満たしているが{ b }
は満たしていない。 - 赤信号:
{ a }
は満たしていないが{ b }
を満たしている。
「青信号」が望ましい状態です。取り組んでいるコトに対して明確です。
「黄信号」は惜しい状態です。とはいっても、{ a }
が決まっていれば取り組む対象の絞り込みは比較的容易でしょう。
「赤信号」は危険寄りな状態です。一旦歩みを止め、{ b }
を空にして{ a }
を思索してみるのが良さそうです。その後「黄信号」に遷移するイメージです。
人の個性の正体は{ a }
なのかもしれませんね。さて、あなたは何信号ですか?
✍️ 追記
> 楽しむため
別の表現として「没頭するため」「熱中するため」「集中するため」「ゾーンに入るため」などが思い当たります。
私たちは日々何らかの「完成」を目指しています。
そこには潜在的な目的として「完成させること」を置いているように思います。「当たり前」ですね。
しかしその「当たり前」は思い違いだったのかもしれません。
ここまでを踏まえると「完成した対象」は「本来の目的の副産物」という捉え方ができますね。
さて、 ――― ここから先は「Blaise Pascal」にお譲りします。
おわりに
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
私としては世界を取り巻く状態が大きく変化する分岐点と捉えており、思索のフェーズを踏む必要がありました。本記事を通して頭の中のモヤのようなものが少しでも晴れたのだとしたら嬉しく思います。
最後に先人の言葉で締め括りとさせていただきます。それでは。
智将は務めて敵に食(は)む。
智將務食於敵。
— 孫武
人の生まるるや柔弱なり。其の死するや堅強なり。
人之生也柔弱。其死也堅强。(七十六章)
— 老子